: DEVOAが始まる起源
私のホームページ名は『刹那の詩』と題してある。
生きている時間、集中し楽しむ時間、全ての時間は宇宙から地球を見た場合は刹那の時間である。
私の人生も刹那の事。
今を生きて沢山の方々に優しさと想いやりを受ける事で制作に集中し楽しむ事が出来ている。
DEVOAの制作についてゆっくりと説明や制作のプロセスをご説明出来たらと思いこの記録を少しずつご紹介したいと思います。
洋服制作の事ばかりではありませんが人生の全てが繋がって今に至る。
DEVOAは私自身を現している。
2024年10月26日
私の父が他界した。
普段、母から昼間に携帯へ連絡が来る事はとても珍しい。その電話で母から知らされた。
その時母はまだ声が震えていた。
父が死去する前日には母と一緒に外へ出掛けたり次の日の昼食の内容まで母に頼んだが、次の日ベッドから起きてくる事は無かった。
父がやり残した事は私には分からないが彼の人生にとってはとても幸せな最後だったと思う。
私は自身の親が居なくなると言う初めての経験で悲しいけれど何とも言えない不思議な感情になって色々な事に集中出来ず脳内は過去を振り返る作業ばかりを繰り返している。
今、この文章を書き始めた時間は10月27日朝の5時55分。
葬儀の準備の為に地元である長崎県佐世保市に帰郷する電車の中だ。
東京から長崎県佐世保市までは飛行機を使って6時間ほどかかる。国内なのにとても遠い。
月末なので会社の経理業務で殆どの会社役員は忙しい時期にあり、立場上私もまた同じである。
沢山の考え事を考える事が出来ない不思議な感情が爆発したのか何故か携帯にこの文章を書いている。
本来考えなければいけない事から逃げて自分の過去を思い出し、今の出来事や考えを残す作業をしている。
私は15歳の春休みの時、同じ長崎県内ではあるが自宅から車で4時間ほど離れた高校にレスリングの為に進学した。
その為、生活はその年から一人暮らしが始まり両親と一緒に暮らした時間は自分の感覚として多くは無かった。
勿論父との沢山の思い出は記憶として受け取っている。
高校時代はレスリングに没頭していたので高校生の3年間の間では殆ど休みが無かったが父は大会があったり父自身が休日を使って家から車を使って4時間以上かかる距離を走り、私の下宿先に来てくれて私の好物である鰻を毎回食べさせてくれた事が印象に残る。
私自身は母方の血を濃く引き継いでいる。
血液型、話す内容や視点、感覚だったり、遺伝しやすい爪や肌から指先まで。
15歳の時、私が高校進学の際に進路は2つあった。
自宅近くの高校を選んで進学、もしくは自宅から離れた場所で一人暮らしをしながらレスリング競技に没頭する事を前提として自宅から離れた高校へ進学を選ぶ二択である。
その際、両親と話し合いをした事を今も良く覚えている。
父は公務員で一般的な生活をし、安定した生活をしてきた。母は祖父が営んでいたテーラード工場の場所を作り替えて草月流生花教室を主宰し着物の着付けと茶道まで芸術的観点の仕事で生きてきた。
母の草月流とは違う視点で制作したドライフラワースタンド 2019年CROMÄGNONで制作。
私の進学について両親の意見は正反対だった。
実家に近い高校へ進学して欲しい父の意見と親元を離れても冒険して欲しい母の意見。
その話し合いの時に母が私に対して助言した内容がこの後の人生でDEVOAの制作をする事になる全ての始まりだと今は自分自身ではっきりと自覚している。
母は私の目を凝視しながら言った。
『あなたの人生です。あなたが今後大人に成長する上で好きな事に集中し、お金の心配をする事無く何かに没頭出来る時はこの時だけです。あなたの人生をあなたが選びなさい。』
結果、私は迷わずレスリングの道を選んだ。
私が選手時代の全国大会の写真
その時父の考えとは違う道を選びましたが大会で結果を出す度に喜んでくれました。
私が全国大会に出る度に何度も減量している事を心配していた。
私はその後、レスリングの成績のおかげで車製造会社に勤めた。
18歳までの人生の全てをレスリングの時間に充てていた為、一般的な常識や感覚が備わっていない自分に対しこの会社で安定した生活を手に入れている事に違和感を感じていた。
そんな時、自分の感情や感覚のまま20歳になる前にその安定した生活が出来る会社を退職する事にした。
退職後、レスリング以外のスキルを全く持ち合わせていなかった私は自身の知識を少しでも活かしたトレーニングジムインストラクターの仕事を5〜6年継続した。
高校生を卒業するまでアルバイトも経験した事が無かった私は夜中も含めた空いた時間に色々な業種のアルバイトも経験した。
その後、どういう運命かお客として行った洋服屋のオーナーから突然オファーを貰い洋服屋の店長として一人で店をやる事になる。
とりあえず店舗でのお金の扱い方や計算方法だけ教えてもらい店頭に1人で販売を行う事になった。その時の私の容姿は今考えると一般的な販売員とは違っていた。
頭は坊主頭で眉毛は細く、真っ黒いスーツを纏い店頭に立っていました。その容姿は殆どジャパニーズギャングである。
まだ若かった事もあり、目つきも悪く店舗があった場所の周りは治安がとても悪い場所に在り本物のジャパニーズギャングの方々もお客様として来て頂いたり刺激的な毎日を過ごした。
当時の私を知るお客様は今でもあの洋服屋には見えない私の姿を覚えているはずです。
他人に対しての優しさや思い遣りなど普通は備えている人間学を私はインストラクターと販売員時代に学んだと思う。
3年程販売員を経験する中で自分が商品を買い付けて販売する事よりも、作る方に興味が湧いていた。
作る方に興味が湧いた理由は言葉で表現が難しい。
単純にもっと理想的な洋服を想像する様に感覚が変化していた。ここまでは販売員としては良くある事だと思う。
この考えが芽生えてからは私の運命が大きく動く。
私はプライベートで洋服のパターンを作っている男性に巡り会う。その男性とは映画やマルセルデュシャン、マルタンマルジェラからアントワープ6、ヘルムートラング、CCP、カルペディエムの話まで好きな方向性や考えが完全に一致していた。
お互いそれぞれが若い頃から当時持っていたお金の殆どを洋服に対して使い、自分なりのファッションを楽しんだ時代があった。
仕事終わりや休日を使ってお互いの時間を共有する中でファッションに対する情熱が爆発した。
私には何が表現出来るだろうか…。
私の特技は何だ?洋服を作る過程でブランドの哲学や自分自身と向き合えるコンセプトは?
自分の足跡を思い返した結果それはスポーツテーピング理論を使ったパターンを用いた考え方だった。
スポーツテーピングは体の一部を固定したり補助する為に必要とする。
人の動作には一定の可動域があり、全身には神経回路が沢山ある。
洋服には生地が縫い合わされて生地が重なる部分がありその箇所は固くなる。
その縫い合わされて固くなる部分を体の動作に対して作用しない様にパターンを設計したり、着用者の動作に影響しないように動きやすいパターンを人体に合わせて設計を考えた。
テーピングには内巻き、外巻きと体の部分に合わせて巻く方向があり不思議な事に体の神経に作用する。
人体に合わせた立体パターンで体幹バランス等を(体の手足のバランス)着用者の体幹バランスよりも長く見えるようなバランスでパターンを製作したり、洋服に対して筋肉の様に分量を付けて体型をより良く見せるようなパターンを思案した。
この様に私自身がレスリングやインストラクターを経験して得た専門的な知識をDEVOAの哲学として制作する事が重要だと考えた。
それから休日の時間の殆どを当時の生地屋と縫製工場へ行き、その現場のお手伝いをしながら沢山の事を学ぶ時間に充てた。
その時間は私にとっては服飾学校で学ぶよりも制作について早く理解する事が出来た。
この経験や出会いが無ければ生地や洋服を作る知識や情熱は成長する事なく洋服を作る事を諦めていた。
私がブランドをスタートした当時は5型だけの洋服を顔馴染みのカフェのスペースで販売する事だった。
展示会として友人を集めてコーヒーを飲んでもらいながら洋服を販売した。
店内が素敵なイタリアレストランで展示会をした事もあった。
勿論、知らないお客様に対して声を掛けて当時でも1万円〜5万円以上する半袖Tシャツやニットを販売していた。
今の時代で見知らぬお客様へ急に声を掛けて販売する事はとても難しいと思うので当時はとても恵まれていたと思う。
その当時のお客様には今でも心から感謝しています。
私に対して投資してくれている事に毎回沢山のエネルギーを貰って次回の製作に挑戦した。
2004年当時販売員時代に初めて制作したセルジュゲンズブールのコラージュ
2005年当時手作りしていたお客様用資料
2005年カフェでの展示会画像
私が株式会社として企業して4年程経過した頃、私の母はテーラーだった祖父が使っていた裁ち鋏とブランドタグを私に渡した。
それはブランドとして制作を始めた際に受けっとったのではなく、ブランドをスタートしてから6年目だった。
その鋏は祖母が作ったであろう、キルトされた布カバーに包まれていました。その袋の刃先部分が破れていたので鋏のカバーは全て私自身で作り直した。
私のキャリアはレスリングからスタートしましたがレスリングの経験でトレーニングインストラクターになった。
トレーニングインストラクターの経験で色々な知識と常識を学び、洋服屋で洋服の色々な事に興味が湧き自分の知識と経験を生かしたブランドを製作する事になった。
それぞれの経験や出会いの点が繋がり、線になった。その事を自分自身が理解し、祖父から私にやっとバトンが渡された事を自覚した事をよく覚えている。
私の家族に感謝しています。
私はレスリングを含めてスポーツをしながら20歳までを過ごしてきましたが現在はParisで展示会を行い、今を生きています。
20歳の頃には想像も出来ません。
人としてはまだまだ未熟であり、
デザイナーとして夢の途中に在ります。
2007年、東京で初めての展示会を迎え、2008年にはParisでの展示会に挑戦しますが私の様に名も無いブランドは殆ど海外バイヤーからは買い付けてもらえず憔悴しながら日本へ帰国する事になりますが…その話はまた次の機会に。